グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



TOP >  白鳥庭園俳句大賞

白鳥庭園俳句大賞


第11回 白鳥庭園俳句大賞 結果発表

令和7年4月~8月末の約5か月間、白鳥庭園の写真をテーマにした写真詠と白鳥庭園をテーマにした当季雑詠をwebと庭園内の投句用紙にて募集いたしました。今回は、総勢867句のご応募がありました!皆様ありがとうございました。
選者プロフィール
若林哲哉
1998年 静岡生まれ。金沢育ち、名古屋在住。
2019年 第二回全国大学生俳句選手権大会グランプリ。
2019年 第九回百年俳句賞最優秀賞。句集『掬ふ』(2020年マルコボ.コム)
2020年 第十二回石田波郷新人賞準賞。
2021年 金沢大学学長賞(芸術・スポーツ部門)
2023年 南風新人賞。現、「南風」同人。
2024年 第十四回北斗賞。

総評

今回も多数の御応募をいただき、ありがとうございました。回を追うごとに佳句が増え、受賞作の決定には毎回苦心します。そのため、当初の想定よりも選考に時間を要し、結果発表が遅れてしまいましたこと、つつしんでお詫びを申し上げます。また、毎回申し上げていることではありますが、惜しくも受賞を逃した句についても、受賞作と伯仲する作品が多くありました。また、高校生の部および小中学生の部については、一般の部と比較して応募総数が少なかったことから、賞の数を絞っておりますことを申し添えます。
 俳句には「何を詠むか」という視点と「どう詠むか」という視点の二つがあります。写真詠の場合、「何を詠むか」というレパートリーは少なくなってしまうかもしれませんが、その分、「どう詠むか」という工夫を凝らす余地があるとも言えます。また、当季雑詠の場合は、「何を詠むか」についてはまさに自由ですが、素材が目新しいものであればあるほど「どう詠むか」という表現の面とあらためて向き合う必要があるように思います。今回推した句は、措辞の検討に余念がないと思わされる作品ばかりでした。新たな佳吟との出逢いに、改めて感謝いたします。
次回の大賞にも、珠玉の作品が寄せられることを心待ちにしております。

白鳥庭園の写真詠テーマ写真

写真は「白鳥庭園インスタグラムフォトコンテスト」より

【写真詠題材】

受賞作品

----------------------------------------------------------
一般の部 (応募総数718句)
----------------------------------------------------------

「白昼」という言葉がある。その上で、「昼まっしろ」とは、口語的な表現を採りながら「白」という視覚のイメージを強めた措辞と言える。「新緑」であるから、夏が訪れたばかりの頃。季節の移ろいとともに一際強く感じられる日差しは、万物を白く飛ばしてしまうような眩しさであるとも感じられる。そこに「神隠しっぽい」というフレーズが重なると、異界への通路が開かれた気分だ。鮮やかな木々の若葉と、そこに差し込む陽光。疑いようのない明るさに宿る一抹の不穏さを、カジュアルな言葉遣いで的確に言い留めている。題の写真を見ると、つい人物の方に目を向けがちである中で、人物の名残を残しつつ景色を中心に描いた点も見事であった。

「肌脱」は夏の季語で、暑い日に上半身の衣服を脱いで肌を出すといった意味。「銃身のかたさ」と感じ取ったということは、肩を抱き寄せたのであろうか。「肌脱の少年」はどこか無防備な姿でもありつつ、触れてみると金属的とも思われるほどの硬さが感じられたということである。銃とは、何かを守ったり、何かに立ち向かったりするための武器。ともすれば庇護される側である「少年」という存在に、確かな自我と意志が宿っていることを思わせる一句だ。

十七音の全てを「擬宝珠の花」の描写に賭した潔い一句である。すくりと伸びる一本の茎に沢山の蕾をつけた擬宝珠は、下の方から花を咲かせる。そうした擬宝珠の花の生態を踏まえつつ、「咲きのぼる」と動的に描いたところが見事だ。実際には一つひとつの花がゆっくりと順番に開いてゆくのであるが、「咲きのぼる」と言い留めたことで、一句の中で一気に花開いていくような速度がもたらされている。タイムラプス的な映像性に、擬宝珠の花盛りである夏のエネルギーが溢れるようだ。

写真の人物を的確に描いた一句。〈六月を奇麗な風の吹くことよ/正岡子規〉を皮切りに、「六月の風」を詠んだ句は多く見られるが、総じて、梅雨の湿度から解放されるような風の心地良さを思わせる。掲句もまた然りだ。涼しく、透明感をもった風が吹く中に、一人の少女が立っている。「へ」という方向を示す助詞がさりげなく効果的だ。単に歩いている様子を描いたとも読めるが、脚からわずかに出っ張っている「ひざこぞう」の形に、実存の意味が付与されたような感覚がある。

写真の人物が履いている青色の靴に注目して描いた一句である。「どこへもゆける青い靴」とは自由や青春性の象徴とも受け取れるが、そこに「秋声」という季語を配した点が独特である。「秋声」とは、万物の織りなす音やあらゆる心理的な感得が秋の気配をもって感じられるという意味である。どこかに寂しさをはらんだ落ち着いた季語の情感によって、単なる自由への賛歌に留まらず、郷愁や躊躇いといった屈折がもたらされている。

手花火がまるで禁じられた遊びであるかのように描かれている。「おぼえて」とは、手花火というその遊びの楽しさを覚えてしまったとも解釈できるとともに、ある日の手花火の刹那の美しさを脳裏に焼き付けたとも解釈できる。そんな「あなた」にとって「わたし」はどのような存在なのだろうか。逢引きのメタファーであるとも読めるが、家族や友人として解しても良いように思う。いずれにせよ、手花火の光のほかは何も見えない深夜の川の暗闇に流れる「あなた」との時間を尊く想っていることが伝わってくる。

----------------------------------------------------------
高校生の部 (応募総数60句)
----------------------------------------------------------

満開の藤棚を下から眺めている視点であると解した。中七・下五の措辞からは、眼前を埋め尽くす藤の花に圧倒される感覚が伝わってくる。藤の花は、その香りが魔除けになると言われることもあれば、強い毒性をもつとも言われる。五感、あるいは第六感にまで訴求する藤の花という存在への深い陶酔が感じられる一句だ。「なづき」という古風な語彙の選択も似つかわしい。

軽妙でユニークな一句である。自身が「ふらふら」であることについて「前世フラミンゴだから」と釈明しつつ、「ふらふら」であることを前世からの宿命であると言ってどこか受け入れているようにも感じられる。「赤のまま」の咲きぶりを思い浮かべると、不思議とフラミンゴの佇まいが脳裏をよぎる。似た色合いながら相異なる存在である「フラミンゴ」と「赤のまま」が「わたし」という人間の前世の中で交差するようだ。

----------------------------------------------------------
小中学生の部 (応募総数89句)
----------------------------------------------------------

飾らない表現に惹かれた。くねくねとした可愛らしい動きは、まさにかたつむりらしい動きである。その様子をしっかりと描いた上で、「いとおしい」と感じる気持ちを素直に言葉にした。作者の優しく穏やかな眼差しが伝わってくる。

親子のかくれんぼの様子を描いた一句だ。「もういいかい」と呼び掛けたあとに、「パパはどこかな」と心の中でつぶやいて、夏木立のどこかに隠れたパパを勢いよく探し始めるのだ。かくれんぼを楽しむ気持ちと、夏の活気がいっしんに感じられる。

川のおとがいつもより勢いを増したこと、はっぱの緑色がいつもよりも濃くなったこと。そうした変化に夏の訪れを感じ取った。自然の移ろいに心を寄せて季節の変化を感じ取ることの喜びがある。